第4章:リン
翻訳者:Yoko Galvin(前田洋子)
日本語訂正者:前田哲哉、前田かおる
それから、デビッドは繁華街まで運転し駐車場がある裏口からレストランのキッチンに入り、まずスタッフに挨拶をした。そこでは、皆忙しそうにランチサービスの準備をしている。そのキッチンは真っ白な壁に囲まれ清潔さを感じさせる広い部屋だった。シェフの白い制服と背の高いコック帽が、そのキッチンをさらに明るくさせていた。部屋の中央にあるステンレス製のカウンターには赤と緑のピーマンが幾つか並べられ、これから調理する準備ができている。カウンターの真上には天井からピカピカの鍋やフライパンが吊るされていた。そして、壁沿いの棚にはさまざまな食品やスパイスが詰まった箱が整然と並んでいて、反対側の壁には食器棚にアラバスターの白い皿とボウルが高く積み上げられていた。
デビッドは笑顔で皆に挨拶し、忙しくなるその日の準備ができているかどうかを従業員達に尋ねると、皆一瞬手を休める。デビッドはスタッフから尊敬され愛されているのだ。なぜならデビッドはボスというよりチアリーダーのような存在だったからだ。そんな風景を見ていると、まだ若く熱意に満ちあふれているデビッドが、自分のビジネスと従業員をこよなく愛していることが伝わってくる。ビルの魂はデビッドがスタッフにどのように接しているかを観察し、その光景を見てかなり嫉妬した。
「お前達は何でこの男をそんなに大切に扱っているんだ? こいつはただの子供じゃないか。だが、俺の妻のヘレンがこの男を愛しているのは本当みたいだ... そして、このレストランの従業員達も。全く理不尽なことだ。この男が持っていて俺が持っていないものは何なのだ?」ビルの魂はデビッドを恨みながらそんな疑問を持った。
デビッドはチーフシェフからランチの準備のほとんどが完了したことを確認した後、スタッフに感謝し、フロントデスクに向かって歩き始めた。そこでは、魅力的なアジア人女性がカウンターでその日の予約のチェックをしている。身長は160cm程で、とてもスタイルが良いその女性はアシスタントマネージャーのリンだった。彼女は30歳を超えていたが一般の東洋の女性と同じように、本当の年齢よりもずっと若く見えた。リンはシングルマザーでベトナム戦争が終わる数年前に、幸運にも脱出することができ、アメリカに来ていたのだ。そして、レストランが2年前にオープンした時に、評判の良いフランス人のシェフ数人とともにデビッドに雇われ、最初の従業員の一人となった。リンを雇った理由は容姿だけでなく、レストランでの経験が他の募集者達よりも優れていたからである。リンは米国で成功している幾つかのレストランで経験を何年も重ねた上、デビッドが習得できなかったフランス語も話すことができた。それはリンの母国がベトナムだったからである。
リンがランチの予約をチェックするのに忙しくしているとデビッドが近づいてきた。アシスタントマネージャーとして、レストランがスムーズに運営されていることを確認することもリンの責任である。彼女はその日、特別なお祝いをするゲストや好みのテーブルをリクエストする常連客のために、テーブルの割り振りをしていた。時にはお客のニーズを満足させることが非常に困難になることもしばしばあったが、リンはお客が非常に重要であることを心から理解していた。何しろ客が来なければレストランは成り立たないのだから。
「おはよう、リン。気分はどう?」
デビッドはお気に入りの従業員に大きな笑顔で声をかけた。
「デビッド、今日もとても体調がいいわ。忙しい一日の準備はできている? 知っての通り予約の数は毎週増えているの。きっと貴方のような能力のある経営者のお陰よね。えーと、そうだ。今夜は大切な結婚披露宴があるからお昼のシフトが終わったら、その打ち合わせをしたいんだけど」
リンは満面の笑みで答えた。 デビッドの目を通してビルの魂はリンを見た。最初、ビルはフロントデスクが明るいキッチンに比べて薄暗かったので、リンの姿がはっきり見えなかった。しかし、暗い部屋に目が慣れると、それが前日チャイナタウンで見たアジア人女性だったことを思い出す。あの街角で見かけた女性の一人だったのだ。彼はそんな偶然を信じることができなかった。
「なんてことだ?」ビルは思った。
リンは肌を引き立てさせる短いダークブルーのドレスの上に、オフホワイトのジャケットを着、胸には小さな金のペンダントをつけている。光沢のある黒褐色の髪は、キッチンに通じる廊下を優雅に歩く度に上下に弾んでいた。デビッドはリンと一緒にキッチンに近づくまで会話を続けた。その間、ビルの魂はリンの事を考え続ける。
「この女は確かに見覚えがある。昨夜、街角で見た以外にどこで見たんだろう?」
デビッドはリンのためにキッチンのドアを開けて、自分も彼女に続いて中に入る。明るい光がリンに降り注いだ時、ビルは突然ベトナムの暑い夏の午後を思い出したのである。そして、リンが何年も前に出会ったベトナム人なのかも知れないと思い始めた。
その後、デ ビッドは自分のオフィスに入った。会計士は、週末は出勤しなかったので、デビッド自身が土曜日のランチタイムに、前日分の帳簿整理を好んでしていたのだ。そうすることで、大学で習得した会計のスキルを忘れることなく維持できた。そういう訳で、土曜日のお昼のレストランの運営をリンに任せ、オフィスで働くのが日課になっていた。数時間、数字と戦った後、デビッドはやっと金曜日の帳簿整理を終わらせた。書類を完成させ、仕事中に食べた昼食でお腹が一杯になっていた彼は、机に突っ伏し眠りに落ちる。午後2時30分を少し過ぎた頃レストランはいつものように閉店し、午後5時に夕食のために再開する予定である。従業員は忙しくなる夜の仕事が始まる前に数時間休息をとるためにレストランを後にした。リンは家に戻る前にデビッドのオフィスに来てドアをそっとノックしたが返事はなかった。ドアが少し開いていたので静かに開けると、デビッドがぐっすりと眠っている。彼女は一瞬躊躇したが、静かにオフィスに入り優しくデビッドの肩に触れた。
「デビッド、起こしてごめんなさい。でも休憩に行く前にムッシュ ハリントンの予約について話しておきたいの」
「ああ、寝てしまっていたか。大丈夫だよ、リン。僕に何を話したいの?」デビッドは答えた。
「えーと、ご存じの通りムッシュ ハリントンが今夜ここで結婚披露宴をする予定なの。彼は55人の予約をしてくださったの。ウェイター達と私はその披露宴の準備を抜かりなくしたけれど、念のため、いつものように貴方に最終チェックをして欲しいのよ」
「リン、君は最高の従業員だよ。僕のアシスタントでいてくれて本当に感謝している。それじゃあ、起きてその宴会の準備が完全にできているか確認しようか。リン、今夜はめちゃくちゃ忙しくなりそうだから、君も夕方のシフトの前に十分な休息をとって欲しい。少しだけど僕は昼寝したおかげで体の疲れが取れた。だから、もうしばらくは頑張れるよ。じゃ、また後でね」
ビルはその時突然、自分の魂がもはやデビッドではなくリンの体の中にいることに気づいた。リンがデビッドの体に触れた時、ビルの魂がリンに移ったのである。ビルはデビッドがオフィスを出てダイニングルームに行くのを見た。なぜ自分の魂が人から人へと移るのかビルには理解できなかった。
「これは俺に対する神の罰なのだろうか? もしそうなら、どうして今なのだろうか?」ビルは思った。
良く考えてみるとビルは若い時、兵士としてベトナムに行って以来、多くの卑劣なことをしてきた。しかし、これらの罪は他人の目から見ると犯罪に値したが、自分自身は罪を犯したとは思っていなかった。ビルにとって戦争中に敵を殺すことや、アメリカで劣等人種を殺すことは神の意志であると思っていたのである。神はむしろこの国に、白人のキリスト教徒だけが住むことを望んでいるのだ。それが本来あるべき姿なのだ。ビルにとっては神を助けていたのであって、神に逆らって行動していたのではないのだ。
リンはビルの魂とともにレストランを出た。そして、いつものようにバスに乗りレストランの近くにある家に戻り、娘のエンジェルに会い、一緒に早めの夕食を取ることが日課だった。夜遅くまで働いているため、休みの日以外で娘に会えるのはこの時間だけだった。リンが夜だけ働くときは、前日と同じようにエンジェルを早めの夕食にチャイナタウンに連れていくこともしばしばあった。リンの家は古い家を改装したもので街の東部にあり、家に着いたのは午後3時少し前だった。その夜は特別に忙しいのでリンは午後5時30分までに仕事に戻る予定だったのと、エンジェルが買い物に出かけていたため、二人はこの日一緒に夕食をすることができない。リンは早めに夕飯を作り一人で食事をし、エンジェルの分は冷蔵庫にとっておかなければならなかった。
家に帰るとリンはすぐに赤いセーターとジーンズに着替えた。そして、手を洗い、ご飯、次に鶏肉と野菜炒めの準備を始める。料理をしている間、子供の頃、故郷で良く歌っていた歌を口ずさんでいた。これらの歌はビルの魂をベトナム戦争に引き戻した。その歌を聞いて自分が直面した悲惨な戦いや、そんな戦場で亡くなった友人達を思い出したのである。幾つかの記憶は何年経ってもビルの身を締め付けるほど衝撃的で残酷だった。ビルはしばらくの間、ベトナムに戻ったような感覚になる。しかし、リンが歌うのを止めた時、ビルは自分がリンの家のキッチンにいたことを思い出した。
夕食の準備が整うとリンはキッチンのテーブルに座り食事を始めた。彼女は一人で食事をするのが大嫌いで、エンジェルが一緒にいてくれたらいいのにとその時思った。だが、エンジェルはもう16歳、家を出て一人で暮らすようになるのは、そう遠くないことだろう。娘がそばにいなくなったら、どんなに寂しいことだろうか? リンはエンジェルを支えるためにこれまで懸命に働き、どんなに忙しくても、毎日一緒に過ごせるような時間を必ず作ることに努力してきたのだ。
何年も前、リンは一度結婚を考えた。彼女に好意を持った男性が、ベトナムに住んでいた時にも、アメリカに移住した後にも何人かいた。そのうちの一人を心から愛していた。しかし、リンは誰とも結婚する気にはなれなかった。まだ親しくない時はそんな男性に恋心を感じても、親密になろうとすると突然恐怖がリンを襲ったのだ。要するに、リンは誰にも心を許すことができなかったのである。
夕食を終えた後、リンは皿を洗い、レストランに戻るにはまだ少し時間があるのでテレビをつけた。画面には市内の金融機関に関する番組が映し出されている。すると会議室で、主席のテーブルに座っている男をカメラがクローズアップした。その男の顔を見てリンは驚き、もっと近くで見ようとテレビの前に立つ。その男はベトナムで何年か前に会った人物であることは間違いなかった。あの頃よりも少し年を取り太っていたが、太い眉毛と顔の右側の顎のすぐ上にほくろがあることがリンにその男を思い出させた。リンは信じられない思いでテレビを見つめると突然恐怖に襲われる。あの男はずっとこの街に、こんなに自分に近い所に住んでいたのだ。
ビルはテレビに映る自分の姿をリンの目を通して見た。リンの怯えた反応から、やはり自分の記憶は正しく、リンがベトナムであったあの少女だったことを思い出した。なんという偶然なんだ、とビルは思った。リンがテレビを見ている間にビルは自分の過去を思い出し、恐怖と怒りがリンの心を襲ったことを感じてビルは驚いた。
「なぜ、この女は俺を見てそんなに怖がっているのだろうか? あれは随分前に起きた事なのに!」
その出来事は、ビルから見れば大したことではなかったが、15歳のリンにとっては人生最悪の経験であって、一生忘れられないほどリンを深く傷つけていたのである。 突然、リビングルームの時計のチャイムが5時を打った。リンはレストランに戻る準備をしなければならないことに気づき服を着がえはじめた。その間もリンの胸はドキドキし、テレビで見た映像を忘れることができない。そんな思いで困惑しながらもリンは家を出て仕事に戻った。
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ムッシュ ハーリントンの披露宴のゲストは午後7時に到着し始めた。レストランはダイニングルームの一部をプライベートな宴会のために区切ることができるようになっていた。宴会場は身なりの良い、結婚式の後で高揚した客で一杯になり始めた。ウェイターやウェイトレスは客に飲み物や前菜を提供するのに忙しく走り回っている。そんな時、晴れ晴れと、白く輝くドレスを着た新婦と、真新しい黒いタキシードを着た新郎が到着した。それを迎えた宴会場の出席者は、大声で祝福し始める。
リンはその日何度もチェックしたが、ムッシュ ハリントンの要求通りにテーブルがすべて用意されていることを再度チェックした。各テーブルにはラベンダー色のテーブルクロスが敷かれ、その上には長い白いキャンドルが置いてあった。そのキャンドルは水の入ったガラス皿に置かれていて、その中には新鮮な花びらが繊細に浮かんでいた。そのキャンドルには火が灯され、部屋を優雅に照らしている。銀の食器セット、パリッとアイロンがかけてある白いナプキン、大きく真っ白なお皿など、すべて完璧にセットされていた。メインテーブルには上品に飾られたウェディングケーキと多種の生け花が置いてある。ハリントン氏が満足げな笑みを浮かべてリンを見ると、大切なお客様の一人が、自分達の仕事ぶりに満足していることを知ってリンは嬉しく思った。 午後7時30分までにはレストランは結婚式のゲストや他のお客で満席になる。この日リンはこの結婚披露宴を担当し、デビッドは一般客のためのダイニングルームの担当をした。
リンの目を通して、ビルはレストランの一部始終を観察した。時々デビッドが披露宴の状況を見に来ていたが、ビルはその都度、朝のヘレンとデビッドとのやり取りを思いだし、怒りと嫉妬で胸が一杯になった。その反面、ビルはデビッドに対し、今まで感じたことのないような思いやりを感じたのも本音である。なぜなら、デビッドが幼い頃に生き抜かなければならなかった経験がビルの心を揺さぶったからだ。デビッドは悲劇な体験を乗り越え、今では自分の人生にとても満足しているように見えた。 ビルはリンのアシスタントマネージャーとしての行動も注意深く見ていた。リンはこの日の午後に家で衝撃的な瞬間を過ごしたにもかかわらず、披露宴の間ずっと冷静さを保っている。宴会中、時々リンが対処しなければならなかった小さな出来事が幾つか起きていたが、どんな事態であっても素早くそれに対応し、その一つ一つを見事に解決する。これにはビルも驚いた。なぜなら、アジア人の女性がこれほどの知性を持っているとは思ってもいなかったからだ。特にあんなプレッシャーの下で… この時までビルは完璧な英語を話せない外国人は愚かだと思っていた。しかし、リンは英語とフランス語を流暢に話し、困難なことが起きても少しも迷うこともなく働いている。最もビルを驚かせたのは、リンがお客に対してどんな状況に置かれても温かい笑顔で対応していたことだった。
宴会が終わり、最後の客がレストランを出る頃には、リンはヘトヘトに疲れ果てていた。この日、披露宴のために12時間以上働かなければならなかったのである。外から見るとリンはどんな時でもとても落ち着いて優雅に見えたが、頭の中では目まぐるしく、必死に働いていたのだ。完璧に仕事を行うリンにはすべてのエネルギーが必要だった。ハリントンの披露宴のゲストは素晴らしい時間を過ごせたので、翌日の2時頃までレストランに滞在した。すべてが片付けられ月曜日のテーブルセッティングが用意できたことを確認し、満足感を覚えながらリンはタクシーを呼んだ。
「今日は日曜日だわ。休日だからエンジェルと一緒に、ゆっくりと過ごせるわ...」
リンはそう思うと嬉しさに微笑んだ。 その夜は肌寒く、リンは薄手のコートで体を包みタクシーを待った。街は不気味なほど静かだった。この街の繁華街が空っぽなのはこんな時間だけだろう。歩行者は誰もいなく、車さえ殆ど通らない。リンが見た唯一の明かりは、さまざまな店やレストランのネオンと街灯だけだった。
タクシーの中で、昨日の午後にテレビで見た男のことをリンは思いだした。あの男は単にベトナムで会った男に似ているだけで、全く他の人かもしれないと思いかけた。しかし、同じ眉毛の形をしていて、ほくろが同じ場所にある人に今まで逢ったことが無い。テレビに映っていた男は自分が知っている男なのだとリンは確信した。そう思うと、暖かいタクシーの中にいても骨の芯まで寒さが襲ってくるのを感じた。再び昔と同じ恐怖を感じ始めた。テレビであの男を見たからといって、今更どうにもならないこととは知っていたが、何年も前に感じたその恐怖をどうしても振り払うことができなかったのである。 あの男のせいで自分の人生は劇的に変わってしまった。もしあの男に出会わなかったら、自分は今でもまだ両親と一緒にベトナムに住み、地元のベトナム人と結婚し、子供も何人か設けたことだろう。サイゴンを離れるという、そんな大胆なことは決してしなかったであろう。しかし、あの男のせいで、自分が若い頃に感じたアメリカ人に対する憎しみと恐怖が、リンの意識から長い間離れることはなかったのだ。あの男に会った時から、リンはすべてのアメリカ人が野蛮人であると心から信じ、その瞑想と何年も戦い続けたのだ。
リンがまだベトナムに住んでいた頃、たまたま見かけたアメリカの兵士たちが通り過ぎた後、唾を吐いた時さえあった。しかし、リンが抱いていたこんな憎しみにもかかわらず、最終的には、リンとエンジェルはアメリカに住むことになり、それまでのアメリカ人への固定観念を全て捨てざるを得なかった。リンはアメリカ人を好きになってしまったのだ。人生はなんと皮肉なものだ、とリンは思う。あんなに憎んでいた国に住む方が、リンにとってはベトナムでの生活よりも、はるかに平穏で心地良い日常生活が送れるようになったからだ。
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家に着くと、エンジェルが眠っているので、あまり音を立てず洗面を終え、すぐに自分の部屋のベットに入った。少しの間、テレビで見た男のことが気になったが、頭を枕に乗せると疲れ果てて眠りに落ちる。リンはしばらくの間、ぐっすりと安らかに眠ることができたが、明け方になって悪夢を見始めたのである。夢の中で、リンはベトナム戦争中の1968年に再び戻っていたのだ。当時、リン ヌエン(リンはベトナム語で「優しい精神」を意味する) はサイゴンの郊外に住んでいた。まだ15歳の明るく活気に満ち溢れた美しい中学生だった。その頃、周りはベトナム戦争真っ只中で混乱していたが、まだ若いリンの人生は平安で楽しいものだった。
夏休みが終わり9月を迎えた学校の初日、リンは数ヶ月の間、会えなかった友達にやっと会え、幸せな気持ちで家に帰ろうとしていた。その上、リンが憧れていた少年が、学校を出る直前にリンに話しかけてきたのだ。それは学校の自転車置き場での事だった。その少年はリンが自転車に乗る寸前に小さな花束をもって近づいてきた。
「リン、これを君にあげる」
少年はハニカミながらその小さな花束をリンの手にそっと渡す。 少年の優しい行為に喜びながらも、完全に不意を突かれたその行為にリンは何と答えて良いか迷った。それでも恥ずかしさを乗り越え、「ありがとう」と少年に囁く。だが、 リンの言葉を待たぬまま、少年は振り返ると素早く走り去ってしまったのだ。リンはしばらく呆然としたが、少年の姿が視野から消えるまでその方向を見続けた。そして、リンは小さな紫色の花を一つ選び、アオザイの胸のボタンの間の狭いスペースに刺した。リンは残りの花束を白いハンカチで丁寧に包み、教科書の入っているバッグの隙間にそっと入れる。その後、自転車置き場で起きた忘れられない出会いを、頭の中で何度も繰り返し思い続けながら家に向かった。
これがリンの初恋だった。前学期にその少年に初めて会ったその日以来、遠くから憧れていた。それまでは誰にもこんな風に感じたことは一度もなかった。その少年の前を通るたびにリンは自分の体が熱くなるのを感じた。彼女はそんな自分を恥ずかしくさえ思った。リンはその少年が時々自分を見つめていたことは知っていたが、その日までその少年がリンに話しかけたことは無かったのだ。だから、自転車置き場で起きたその瞬間はリンにとって特別で忘れられない思い出になる。 自転車で家に帰る間、リンはアオザイの胸のボタンの隙間に刺した紫色の花を指で触れ、その指で自分の唇をそっと触れた。真っ白い歯、優しく揺れる長い黒髪、白いアオザイとお揃いの白いコットンのスラックスをはいて、まるで空中を飛んでいるかのようにリンは自転車で走り続ける。彼女の日焼けした肌、晴れやかな笑顔、そして、ほっそりした体はリンが通り過ぎる人達の誰もの目を引いた。
サイゴンの賑やかな通りを抜けた後、リンは静かな畑や野原を通り過ぎ、竹林に囲まれた小さな丘に近づく。その周りには一見誰もいないように見えた。リンは微笑みを絶やすことなく自転車から降りて、その緩やかな坂を歩いて登り始める。その竹林は自宅からそれほど遠くなかった。リンは途中でしばらく立ち止まり、バッグから花束を取り出して匂いを嗅ぐと、野生の花が混ざり合った繊細な香りが彼女を喜ばせる。深呼吸をして花束をバッグに戻すと、アオザイの胸から小さな紫色の花を取り出し、少年の唇を想像しながらそれに優しく唇を当てる。リンはそっと目を閉じて体を駆け巡る感触を静かに味わう。 だが、あまりにも幸せな思いに包まれ過ぎて、誰かがそばにいたことに気づかなかった。紫の花をアオザイに戻し再び自転車に乗ろうとした時、突然大きな男が後ろから彼女の肩を掴んだ。すると自転車と花束の入っているバッグとともにリンは地面に落ちた。リンは驚いて叫ぼうとしたが、男はすぐに右手でリンの口を塞いだ。そして、左手で彼女を竹林の中に引きずり込んだのだ。リンは全力で自分の体を守ろうとしたが、その男の大きな腕から逃れることができなかった。リンはその男に対して無力だった。男はリンを地面に押し倒し自分の思い通りにならないリンを殴り始めた。その時リンは男の顔をちらりと見た。男は若いアメリカ軍人で茶褐色の短い髪をし、太い眉と顔の右側の顎のすぐ上にほくろがあった。その顔はリンが恐怖と憎しみを抱えて一生記憶に残る顔になった。リンは全力でその男の行動を止めようとしたが、体力的に無理だった。リンがついに戦うことを諦めた時、打撃による衝撃と体の中に耐え難いほどの痛みを感じ、リンは意識を失ったのである。
リンが意識を取り戻し自分に何が起こったのかを理解するまでには、少し時間がかかった。リンが横たわっている竹林の中は、静寂の空気が漂っていた。空は奇妙に青く、白い雲がリンの心を暗い影で包み始める。恐れ恐れ辺りを見回すとその男はもういない。リンは立ち上がろうとしたが、まだ体の震えは止まらず膝もかなりおぼつかなかった。リンの顔と白いアオザイは血と涙で所々汚れている。その経験は15歳のリンにとってあまりにも戦慄で呼吸をするのも難しかった。その現実にどう反応して良いのか判らなかった。リンはよろめきながら竹林を抜け自転車が横たわっている所まで何とかたどり着く。しかし、自転車を元に戻す力さえなく、そのそばに立ち止まり、しばらくの間バッグの中に入れた花束を見つめた。するとリンは突然怒りを感じ、その花束を引き裂き始めた。花々の形が無くなるほどバラバラになると顔を両手で覆い、暗闇が取り囲む中、泣き続けた。太陽はまるで何事もなかったかのように無慈悲に地平線に沈んでいく。 リンは涙が枯れるまで泣き続け、数時間が経った。心も体も疲れ果てたリンは自転車とバッグをその場に置いて、自宅に向かって歩き始める。そして、突然アオザイの胸に刺した紫色の花を思い出し、そっと引き抜いた。驚いたことにその花には何の損傷もない。リンはしばらくそのまま立ち止まり、紫色の花から花びらを一枚一枚引き抜き、夜風に浮かべた。
幸せだったその日の午後は、リンにとって残酷で最も暗い思い出となってしまう。 事件の数日後、リンは学校に戻ると、花束をくれた少年を避けるようになった。リンは自分自身がなぜか汚く思えたからだ。少年は何度も近づいてきたが、リンは彼がまるで存在しないかのように振る舞った。その後、自分が何か悪いことをしたのだと思い諦めた少年は、リンから遠ざかって行った。
この事件から数ヶ月後、リンは自分が妊娠していることに気づき、両親とともに、かなりの衝撃を受けた。なぜなら、ベトナムでは父親のいない子供を持つ女性は社会的に見捨てられ、特に、女性がアメリカ兵に強姦され妊娠した場合は、周りから厳しい扱いを受けていたからだ。数ヶ月が経ち、ゆったりとした服が妊娠を隠すことができなくなると、リンは学校に行くことを諦めなければならなかった。このことが最もリンを苦しめ、自分をこの苦難に追い詰めたアメリカ兵を憎んでも憎み切れなかった。と同時に、自分の体の中ですくすくと成長している小さな命さえも心から憎み始める。リンはそれが胎児のせいではないと知っていたが、この子のせいで生涯、自分が何らかの苦痛を経験することは避けられないと思うと、居てもたってもいられなかった。もしリンに選択肢があるのならこの子の命を絶ちたかった。
深い絶望感に包まれる中、サイゴン市内にあるカトリック教会がリンのような立場にいる女性を差別することなく受け入れ、援助してくれているという話を友達から聞いた。リンは藁にもすがる思いで数ヶ月の間、教会の後ろの方に座り、一人でミサに出席し始める。最初は、周りの信者たちの真似をして1時間も続くミサを与かっただけだったが、教会の中の神秘さと静けさが少しずつリンの心の慰めになり始める。その頃は、聖職者のほとんどが白人男性だったため、少し恐れを感じ距離を置いていた。そんな時、リンは地元の修道女からベトナム語で書かれた聖書を渡された。それを読めば読むほど自分がもっと癒されるように思え、リンはあっという間に与えられた聖書を読み終える。リンが聖書を読んで特に驚いたのは、イエスキリストがユダヤ人で、白人だということだった。だが、聖書に描かれているキリストはどんな人々に対しても慈悲深く、愛情をもって接している。その事実を知って、白人男性だからと言って皆が皆、リンを襲った男ほど邪悪なわけではないことを理解した。
ある日の午後、その修道女が、モントリオール(フランス語が公用語)から来たカナダ人神父をリンに紹介した。彼の名前はピエール神父。ベトナムではフランス語も話すため、リンはビエール神父と流暢にフランス語で会話することができた。ビエール神父は緑色の目をした大柄でかなり年をとっている白人だった。リンはこの日からミサに出席するためだけでなく、神父と話すために教会に通い始める。やがてリンはピエール神父を信頼するようになり、両親以外には話せなかった、あの恐ろしい出来事の詳細についても話せるまでになった。ピエール神父はそんなリンの話を深く同情し、思いやりをもって聞いてくれただけでなく、神について、もっと詳しく話してくれたのだ。そして、神がいかに慈悲深く全能で、人々を差別することもない素晴らしい存在であることや、聖書についても、もっと詳しく教えてくれた。後にリンは教会の周りの人々を見て、この事実を自分自身で理解した。リンの妊娠を知った後、親戚や友人たちはリンを批判し避けるようになったが、教会の人々はそんなことはなく、優しさと愛情を持ってリンに接し続けたからである。
やがて、リンは毎日教会を訪れるようになる。そこで、神についての知識を深め、教会で支援している英語のクラスにも参加した。リンはまだ若く、すでにフランス語を話すことが出来たので他の言語を学ぶのはあまり苦痛ではなかった。そして、教会の修道女や神父様達と英語でも会話出来るようになった。 ピエール神父はまた、お腹の中の胎児を憎むのではなく愛することをリンに教えた。そのことはリンにとって初めは苦痛であったが、自分の体内ですくすく育ち続ける胎児を少しずつ受け入れることができるようになる。娘が妊娠中絶を望んでいたのを知っていた両親は、リンが完全にそれを諦めたことを知ってほっとした。女一人で子供を育てることは大変なことだとは知っていたが、手術中に何か問題が生じ、リンが命を失う可能性があることを恐れていたからだ。当時、ベトナムの妊娠中絶の手術のほとんどは、違法な地元の医師によって行われていて、その結果、多くの女性が滅菌されていない部屋で行われ、複雑な手術中に命を落としていた。困難な生活がリンの将来を待ち受けている事を知っていた両親だったが、少なくともそんな死からは免れる。リンにはどうしても生きて欲しかった。
赤ちゃんを産むことを決心してからは、リンはお腹を優しく撫でながら胎児に話しかけたり子守唄を歌ったりし始めた。胎児が成長するにつれて、リンにとってとても愛おしい存在となった。胎児が5ヶ月を過ぎ、リンのお腹を初めて蹴った時、リンはこれまでに経験したことのない深い愛情を感じる。この瞬間、これから起こるであろうどんな逆境からもこの子を守り、強い母親になることをリンは決心した。まだ16歳になったばかりだったが、リンは成熟した女性であるかのように振る舞いはじめた。10ヶ月があっという間に過ぎ、リンは教会の近くの病院に入院した。出産も迫り、母親と病院の看護師が陣痛中に何をすべきかを説明したが、まだ若いリンにはこれからどのようなことが起こるのか完全には理解できなかった。赤ちゃんが生まれる直前に感じた陣痛の痛みは耐え難いもので、リンは母親にしがみつきながら何度も何度も叫び声を上げた。リンはなぜこんなに苦しい思いをしなければならないのかと神に尋ねる。だが数時間が過ぎ、出産を終えると、そんなことがまるでなかったかのようにすべての痛みが消え、リンは赤ちゃんの最初の泣き声を聞いた。リンは安堵してすすり泣きはじめると、母親は誇らしげにリンに微笑んだ。
看護師が赤ちゃんを綺麗に拭いて白い布で包み、リンのベッドのすぐ傍に運んでくると、リンと母親は可愛い赤ちゃんを見て湧き出る愛情を感じる。長いお産で疲れ果てていたにもかかわらず、リンは自分が生んだその小さな命から目を離すことができなかった。赤ちゃんがどれだけの痛みをリンに与えたことかなど、知りもせず腕の中ですぐに眠りに落ちる。 リンは赤ちゃんの仕草の一部始終を見続けた。光沢のある濡れた髪を優しく撫で、母親の方に顔を向けると、
「お母さん、私が生まれた時、こんなに小さかったの?」とリンは母親に聞く。
「そうよ、リン。生まれた時のあなたはこの赤ちゃんよりも、もっと小さかったわ。黒くて美しい目で私を見上げていたのを昨日のことのように覚えているわ。昔はこんな風に病院で赤ちゃんを産んだんじゃなくて、あなたは助産師の助けを借りて家で生まれたのよ。大変な陣痛を経験して死ぬかと思ったことを今でも覚えているけど、あなたを初めて抱いた時、その痛みはみんな忘れちゃった。リン、本当に素敵な大人になったのね。ほら!赤ちゃんがあなたに微笑んでいるわ」とリンの母親は言った。小さな指にリンが触れると赤ん坊は目を開け、リンの指をしっかり握り返す。長く黒いまつ毛が瞬き、リンを見つめ返す。肌の色はリンよりももっと白い。リンの胸に抱かれて赤ん坊はぐっすり眠り始めたが、リンと一緒にいることに満足しているかのように時々微笑んでいた。この仕草はリンを計り知れないほど満足させ、この赤ちゃんがそばにいる限り何があっても自分は生き残れるとリンは思い始めた。そしてリンは、計り知れない貴重な贈り物を授かったことを神に感謝し、ベッドの上で数分間祈った。それから、疲れ果てていたリンも満足な気持ちに包まれ微笑みを浮かべて眠りに落ちた。数日後、赤ちゃんはベトナム語でトゥエン(エンジェル)と名付けられた。 体も回復し少し時が経つと、リンは別の学校に移り高校卒業を目指した。そして、週末はサイゴンの地元のフレンチレストランでアルバイトを始める。母親が赤ちゃんを殆ど見てくれたことは幸いだったが、それでも、娘の世話をしながら毎日学校に通い、週末は何時間か働くのは大変だった。リン自身はまだ10代なのだ。しかし、リンは少なくとも高校教育を受けなければ自分の将来が不利になることを知っていた。リンはすでに自分と同じ状況にいる友達の何人かが学校を辞め、決して望まない生活を送っているのを見てきているのだ。路上でコールガールとして働いている友達も何人かいる。中には、かなり年上の男性と結婚し、新しい家族から奴隷のように扱われていた友達もいた。
リンは小さい頃、学校の教師になりたいと思っていた。小さな子供が大好きでそれが彼女にとって完璧なキャリアになると思っていた。しかし、私生児を産んだことで、その夢を追いかける機会は全く無くなった。教師を目指しても大学の方で受け入れてくれないことをリンは理解していた。教師になる夢は閉ざされたが、もっと教育を受けたいという意志は諦めなかった。そして、リンの忍耐力と両親の支援により、高校を卒業した後、ビジネスカレッジを卒業することができた。カレッジを卒業後、サイゴンにあるフレンチレストランでアシスタントマネージャーの仕事に就き、後にマネージャーにまで昇進した。リンはそんな仕事に就けたことをとても嬉しく思い、長年に渡って支えてくれた両親とピエール神父に心から感謝した。
リンは仕事場や教会ではみんなから尊敬され始めたが、親戚や隣人からは何年たっても認めてもらえず、罪悪人とでも接しているように扱われた。教育を受け良い仕事に就いたからといって、彼等のリンとエンジェルに対する感情は変わらなかった。リンとエンジェルに最も近いはずのそんな人々は、二人を売春婦と私生児としてしか見ていなかったのである。大人になったリンはそんな扱いには耐えられることができたが、エンジェルが理不尽な扱いをその人達から受けるのを、見るのだけは耐えられなかった。エンジェルが他の子供達と遊べる年齢になった時、リンはその子供達がエンジェルに石を投げた上、俗悪な名前で彼女を呼ぶのを何回か目撃した。その都度エンジェルは髪を乱し、泣きながら家に帰ってきた事が何度もあった。エンジェルが虐められ苦しんでいるのを見る度、リンの心は深く傷ついた。そんな状況から逃れるため、リンはベトナムを離れる決意を固める。 そんな時、親子二人が苦しんでいるのを見ていたピエール神父は、リンにアメリカに移住するように勧めた。その頃には、リンは白人男性を憎むどころか、尊敬することができるようにもなっていたのでリンはその提案に抵抗することもなかった。そして、リンは過去に起きた出来事は、たまたま自分が悪い状況に置かれ、一人の犠牲者になってしまったのだと思い始めた。ただ、なぜ神が、自分と娘のエンジェルにこれほど多くの苦しみを与えたのかは良く理解できなかったが、それでも自分が置かれた運命を受け入れることを決心した。その運命がリンにエンジェルを授けてくれたのだから ― 小さな、可愛い最愛の天使を!
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あの恐ろしい事件から17年が経ち、その間リンは同じ悪夢を見続けた。夢の中ではすべてがスローモーションで、ほとんどの詳細は記憶していたものとまったく同じだった。しかし、レストランの仕事を終え、ビルをテレビで見たその夜の夢はいつも以上に鮮明になっていた。それでいて、ある部分が少し変化していたのだ。その夜の夢の中では、若いアメリカ兵士の顔がテレビで見た年配の男性の顔に置き換えられていた。それどころかリン自身が15歳の少女から30歳も過ぎた今の自分に変わっていた。そして、美しい晴天の秋の日は、1月の暗い深夜に変化し、竹林は繁華街の人気のない裏通りに変わっていた。そして、テレビで見た男がレストラン近くの建物の角から突然現れ、裏口から出ようとしたリンを誰にも気づかれぬまま襲ってきたのだ。男は反撃するリンを殴り、大きなゴミ箱の後ろでリンを犯す。悪夢の中で感じた痛みと恐怖は、あまりにもリアルで、リンは夢の中で叫んだ。
ビルの魂は、この悪夢を通してリンの過去を経験する羽目になった。リンがビルに強姦された時に感じた恐怖は、ビルの心を引き裂くほど強烈だった。自分は17年前あの竹林に確かに居た ― ビル自身がベトナムでリンを強姦した兵士だったのは間違いなかった。当時、胸がワクワクしたあの事件は、被害者のリンにとっては恐ろしい出来事だったが、ビルにとってはただのゲームでしか無かったのだ… 地元の少女を強姦することがどんなに楽しいだろうと、ビルはこの時までいつも想像していた。そうすれば、そのことが他の兵士と話す時に自慢話の一つにでもなると思ったからだ。被害者は洗練されたアメリカの女性では無い、ただのベトナム人少女で、たまたま運悪く、ビルが居た竹林を通っただけだったのだ。そして、この少女に二度と会うこともないのだから自分は警察に捕まることもない。竹林の中でビルが少女を見つめたときビルの頭の中では、その少女が最終的には喜んで自分を受け入れているのだと勝手に思っていた。それと同時に自分はこの少女の国を救うために命を犠牲にしているのだと思い、ビルがその時何もかも破壊したい衝動に駆られたのも本当だった。それはこの少女の不運だった。強姦された経験がリンのような若い無邪気な少女にとって、どれほど絶望的なものになるかをビルはそれまで一度も考えようとはしなかったのである。リンの中に閉じ込められたビルの魂はリンの悪夢を通してその苦しみを知り、自分のしたことを心から後悔してすすり泣き始めた。